みちのく占いかわらばん

四柱推命鑑定士 悠岑(ゆうしん)

四柱推命かわらばん

悠岑の養母の忘れモノ

  2019.07.20更新

あたい悠岑の「育ての母親=養母」が、
亡くなった当時を思い出しながら、
書いております。
誰かが同じく悲しんで、
今でも忘れられない状況にいらっしゃるのなら。
気休めかもしれませんが、
残されは人には「まだまだ生きていく使命」も
あると思うのです。
 


 
あたいの心に今でも深く残っている。
あたいと養母のお話。
心の引き出しの中にしまって、
カギでもかけて、
忘れ去ろうと思ったが。
 
世の中の誰かが、同じような状況で、
「忘れられない」でいるとしたら、
 
「無理に忘れる事はない」
時間の経過と共に、写真が色褪せるように、
その悲しみも・嫌なマイナス感情も、
いずれセピア色になる時がくる。
 
そんな思いが伝われば幸いです。

 


 
大震災の前の年だったろうか。
朝早く自宅の電話が鳴った。
こんな時間に誰だろう?
 
あたいが育った家の、道路向いの家の
おばちゃんからだった。
 
「○○○ちゃん!母さんがね、今、
救急車で運ばれていったから、
早く病院に行って!」
 
電話を置いた後、正直またか・・・
と思った。
 


 
養母は25年、
「腎不全による人工透析」をしている。
 
今まで人工透析の副作用というか、
透析をしている為に、
色々な箇所に支障をきたして、
入退院をくり返していた。
 
あまり驚きはなく
「またか、今度はどこなのだろう」
と思いながら、病院に行く支度をしていた。
 
しかし前年の冬頃から、
かなり弱っていたのは気づいていた。
その事を思い出し、
少し申し訳ない気持ちが出ていた。
 
いつも電話で元気を振り絞って、
声を出していたのだろう。
 


 
数時間後、病院に着いた。
今日は日曜日なので、
入り口を探すのに少々てこずった。
 
窓口で養母の名前を伝え、
急いでその場に向かうと中には入れない。
 
隣の部屋に養父と、
看護師さんが話している姿が見えた。
「お父さん!お母さんは?」
養父の小さく丸くなっている背中が
印象的だった。
 
ICUに入って、
容態は落ち着いているとの事。
 
入院の説明や、手続きを
養父のかわり自分がして。
20分くらい養母と対面しただろうか。
養母の顔をながめ、少しだけ安心し、
養父を自宅まで送って。
そして一旦山形に帰ってきた。
 
今回は何か・・・
なんとも言えない気持ちになった。
 
その数日後、HCUに移された。
HCUは2人部屋で、
付き添いはいらないとの事。
 
しかし、自分は今まで「養母」に対し、
何もしてこなかった。
「何かしてあげたい」の気持ちで、
待合室のソファーに寝に通った。
 
鑑定が終わり何だかんだで、
22:00過ぎに病院に到着。
朝の4:00に病院から自宅へ。
 
 養母が夜中、
幻聴や幻覚が収まらないのである。
隣の方も他の病棟に移り、自分は養母
HCUに寝ることが許可され、
夜だけ養母のもとに通った。
 
その後、一般病棟に数日移されたのだ。
(その後は1人部屋)
その頃も、一時的に幻聴や幻覚があった。
 
気になり看護師の方に聞くと、
わからなそうで、
はっきりした答えがかえってこない。
 
しかし検査をし、何もなければ
リハビリをして退院と、
養父から伝えられる。
 
それでも私は夜だけは通った。
 
夜中、幻聴や幻覚で騒ぐ事もあり、
とにかく心配だった。
ご飯はあまり食べず、
水分は1日500ミリリットルまで制限。
日に、日に、元気がなくなる感じ。
 
養父は養母
「もう少しで退院だね」と喜んでいた。
「神様が守ってくれたのだね」って。
 
・・・私には理解できない。
 
大事にならなくてよかった。
これで自分もやっと布団で寝られる。
通わなくてもいいのだ。
とりあえず落ち着いた形なので、
いつもの生活スタイルに戻った。
 


 
退院後の生活をサポートする為、
病院の方と話しを進めていた時だったか?
養父が病院から呼ばれた。
 
その後、すぐに私へ連絡が入り、
また病院へ向かった。
 
検査の結果「養母」の体は、
25年人工透析してきた体は、
もうすでに終わりにきている事。
 
心臓の弁の働きが悪く、
いつ止まってもおかしくない事。
 
大腿骨の付け根に、透析の
シャントというものを付けられるが、
今の病院では手術が無理。
また手術が成功しても、
半年しか透析ができない事。
 
養母が高齢の為、
手術の時間、体がもつかわからない事。
 
養父は「お前が決めてくれ・俺には無理だ・
病院には行きたくない」と言うあり様だ。
 


 
病院のドクターとの待ち合わせ時間より
早めに着いた。
あと30分という時間が妙に長い。
 
ドクターから説明。
「もう○○○(養母)さんの体は、透析にも
耐えられない状態です。
もうここまで頑張ったのだから、
終わりにしましょう。
・・・娘さんのご希望は?」
 
淡々と話すドクターに思わずムカついた。
 
私が初めに出した言葉は「だめです!!」
・・・何を言っているのだろう。
本当に子供っぽい。
もっとマシな言葉は出なかったのか?
 
ドクターと私の無言の時間が続いた。
 
「この病院で手術が無理なら、
半年でもいいので、手術してください。
ドクターヘリでお願いします」
 
ドクターはその後、かなり真剣な顔つきで
「アナタは○○○(養母)さんの
苦しみわかるのですか?
手術をする間も、もたないかもしれません!
手術も成功するかわかりません!
成功しても、まっているのは○○○(養母)さんの
苦しみだけですよ!よく考えてみてください!」
 
頭の中が真っ白になってしまった。
 
しばらくの沈黙が続いた後、ドクターが
「○○○(養母)さんに直接きいてみましょうか?
本人はまだしっかりしている、わかっているから」
 
私はただ、ただ、うなずくだけでした。
 
病室ではちょうど退院に向けて、
リハビリの為、
作業療法士の方2名が来ていた。
 
ドクターと私が入って行き、
リハビリを中止してもらった。
 
養母は穏やかな表情で起きていた。
 
罪悪感みたいなものが
私の中になぜか出てきて、
倒れそうになった。
それでも自分に冷静に
冷静になれ・・・って。
 
ドクターが静かに養母の所に行き、
養母の目線に立ち、
少しずつ話をしていき、
本人に選択をゆだねた。
 
養母の答えはノー。
何もしない。
「先生、私ね、もう痛いのとか苦しいのは嫌だ!
もういいから充分!」
 
養母のしっかりした声に、
ドクターは深くうなずいた。
私はその場に居られなくなり、
走って逃げだした。
 
・・・私の弱虫。
 
涙が止まらない。
 
どうしたらいいのかわからなく、
近くにあった緑色の公衆電話にしがみついた。
 
何事もないようにみんな、
私の周りを通りすぎて・・・
笑い声が聞こえ、
すたすたと歩く足音。
 
・・・もうやだ!
 
1時間近く過ぎた。
勇気を出して私は養母の病室へ。
 
養母はニコッと笑った。
幻聴も幻覚もなく正気な感じ。
 
今日から透析も中止。
できないのだ!
(もう透析をするには心臓が・体が限界だった)
 
記憶があるうちに、
好きなものを食べさせたい。
 
養母に「アイス食べる?氷アイス!ね?ね?」
「誰にもナイショだよ」
私は思いっきり走った。
 
売店のアイスを買いに。
エレベーターなんか待ってらんない。
階段を一気に下り上って、
溶けないうちに。
 
養母は全部食べた。
 
その後、また幻聴と幻覚が始まった。
このアイスが、
養母の最後の食事になってしまったのだ。
 


 
看護師の方から
「今夜から家族の1人、
泊まってもらえますか?」
 
養父にすぐ電話をして、すべての話をした。
 
その後、養父が病院に来たのはいいのだが、
「家で待っているからな」
そんな言葉を養母に残し、
帰る支度を始めた。
 
ちょっと待て!!
養父に「今日ぐらい泊まってあげてよ!」
 
養父「気分が悪くなるので俺は帰る。
後はお前に任せる!」
 
何?後は・・・って
このバカおやじ!!!!!
 


 
一度山形に帰って、準備をして
5日間泊り込んだ。
その時は鑑定を休ませてもらった。
 
 養母が最後に言った言葉、
「あなたはいつも、いつも苦労ばかりしていたね。
幸せじゃなかったよね」
言葉が出なくなってしまった。
 
今なら言える。
「昔も今もずっと幸せだよ」って。
(だって過去があるから、現在の悠岑がいる)
 


 
そろそろ着替えがなくなって、
6日目の夜。
一旦、自宅に着替えを取りに帰った。
 
夜の8時頃だったかな。
 
次の日の朝一番に、病院に行こうと思った。
 
しかし私が居なくなった数時間後・・・
安らかに眠ってしまった。
私の居なくなるスキをみてだったのかな?
 
○○さん・・・・(母の名前)
 


 
その後、養父がだんだん弱ってきた。
壊れ始めたのだ。体ではなく頭の中が・・・
 
養母「養父」という
「大きな、大きな忘れもの」をして・・・
 永遠の眠りに行ってしまった。

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